ブルースについて後編/リズム変遷”関根敏行”

2015年5月8日
ブルースについて後編/リズム変遷”関根敏行”

 ブルースについて 後編 ちょっとした解説
ブルースとラグタイム、それにマーチの要素が加わってジャズになった。ので、ジャズに比べてブルースはその前代の印象があるが、実はそうでもなく、似て非なるジャンルとして並列に発展して来たと見る方が妥当ではないかと最近は思っている。
ロバートジョンソンが活躍したのが1920年代だとしてサッチモの全盛期(長生きしたので全盛期が60年くらいあるのだがここではその初期)と重なるんである。ルイ・アームストロング&ホットファイブやオールスターのレコードにはブルースがメインのレパートリーになっているし、歌もの(AABAやABAB形式の8小節大楽節を基本とした楽曲)にしてもブルースの変形が多い。ロバートジョンソンにも“Red Hot”など素敵な歌ものがある。極論すればジャズの楽曲は“ブルースの変形を以て良しとする”ようなところがある。ビルエバンスからコンテンポラリーの時代になって変わっていくのだが、マイルストーンまでのマイルスは必ずブルースを扱っているし、カインドオブブルーでモード奏法に突入してもモードによるブルース“All Blues”を作っているし、マイルススマイルズでは“フットプリンツ”(ウエインショーター作)という名曲も生まれている。
奴隷時代の末期に教会のゴスペルとは違う生活の歌としてブルースが生まれつつあったのが南北戦争による奴隷解放例で自由を手にしながらも自立の厳しさに追い立てられた人々がその生活の歌としてブルースを作り出した、というのが辛うじての僕の知識。ジャズがジャズとして発展しだす20世紀初頭に先んじてミンストレルショーやニューオリンズのマーチングバンドによるジャズに向けてのスタイル発展があったこと。一方12小節単位に形式がまとまっていき、演奏法も醸成されていったブルース形式がロバートジョンソンの登場で革変期を迎え、サッチモの登場が初期ジャズの確立の象徴となっていることを考え合わせれば、ジャズとブルースは誕生に向けての時期と形式が確立・発展していく時期は重なるように思うのだ。
入院中永井隆・ホトケに見舞いで貰ったニューオリンズCD缶3枚セットを聞きながら考えたこと。

リズム変遷②関根敏行のハンコック話
教え:ハンコックの初期のブートレックを聞くと、俺たちと同じように(関根は僕と違って当時からリズム・タイムはどっしりしっかりしていたのだが、それでも本人的にはまだまだ不満だったのだろう)目のめりになる場面がいっぱいある。ハシってしまうウイントン・ケリーみたいだ。だからやっぱりあんな天才でも随分努力して安定したリズム・スイングを獲得したんだよ。

世間話:
1972年位か。学校には行かなくなっていたが、まだ学籍は残っていた。立川・八王子あたりのキャバレーの仕事を仲間とぐるぐるしていた。一時のブームが去って暇にしていたRCサクセションの面々と親しくなったのもその頃で、国立の作曲家で同期の柴田君(のちのGONTAⅡ)がサポートをしていた。
彼の紹介で出来て間もない吉祥寺の“サムタイム”で弾き始めた。今はもう一般的だが、当時としてはピアノとベースのデュエットをメインに生演奏を聴かせるレストランバー。ケニー・ドリューとニールス・ヘニング・オルステッド・ペデルセンのデュオアルバムがそのスタイルの嚆矢だろう。店主の野口さんもその辺りからヒントを得たに違いない。
れんが造りの内装もモダンで随分人気があった。店の近くの成蹊大学ジャズ研の連中を主に使っていた。斎藤誠、津垣博道、大徳俊之など。若くして天才の呼び声高き本多俊之も少し下級生にいて、サムタイムには来なかったけれど、学園祭などで共演し、やがて彼のデビューバンドに僕も参加することになる。バーニング・ウエイブ。それはまた別の話。
そのサムタイムのレギュラーピアニストが、柴田・佐山・津垣、そして関根だった。少し遅れて続木徹。ベースの斎藤誠・桜井郁男・坂井紅介・成田敬、少し遅れて金澤英明。21〜23才がダマになってわぁわぁとジャズ談義に明け暮れる毎日は、それはもう楽しくてしょうがなかった。成人していたとはいえ幼馴染みの感がある。

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