ジョニー吉長の自然体(承前)

2015年8月21日
ジョニー吉長の自然体(承前)

教えその2:バンドなんだから、何があっても一緒だろ?
JRSMとしてレギュラー活動を始めたのは芝浦に出来たライブスペース“インクスティック”の月例ライブ。
ジョニーの昔の曲から、コーキたちと作ったアルバム、JRSMとしての新曲など月々楽しくリハと本番を繰り返す。リハと言っても深沢の江戸家レコードスタジオだから贅沢なもんである。出来が良ければそのまま録音を取っておいてまとまったところでアルバムにする。
一方日本テレビ系で“ロック鳴館”という番組を立ち上げてレギュラーの4人の演奏もきっちり取り上げながら毎回ゲスト(チャー、金子マリ、野村義男など何だか普段の飲み仲間、バンド友達なところがまた良かった)を入れて、コーナーテーマ(クラプトン、とか)充実した30分番組だった。
事務所がついて、イベンターも周囲で待ち構えていて、テレビ局も協力体制があって(ブルースマン吾妻ミツヨシが日テレ社員としてスタッフにいたのも大きかった)、活動を充実させ、膨らませていく。
ピンククラウドもこうやって大きくなっていったのだな、とジャズ界とはあまりに違うシステムを学習出来た。ピンクのように2000人集めるようなバンドにはならなかったけれど、ジョニーもそういうのではなく音楽を始めた時の小振りで自由度の高いバンド活動が望みだったのだろう。それでも僕には身の丈にあわないくらいの大きいプロジェクトだったけれど。
ジャズのレギュラーやセッション、歌の伴奏や芸能界っぽい仕事もしながらだったが、JRSMの一時期は幸せなワンピリオドだった。
インクの月例が始まって1年経つか経たない頃、ロミーが、“ノウセキスイホーショウ“という難病に罹った。右手、最初は指先、だんだん手首まで、果ては肩の付け根から動かせなくなってゆく。JRSM以外の様々なセッションには出られなくなり、僕と一緒に別口で続けていた”Crazy Booie Night“もトラが多くなっていく。
ベースの動きだけでなく、気持ちも落ちるので、簡単な曲も忘れたり間違えたりする。しかし他のバンドと違ってロミーは石にかじりついてもリハや本番の現場に出てくる。「本人も大変だし、バンドとしても自信が持てないところにいくのだったらトラを入れるか一時的なメンバーチェンジをしたらどうか」とジョニーに提案した。実際名古屋ツアーなどロミーがキツい時に六川マー坊(ロミーのことを先輩として大尊敬するヘビーサウンドの素敵なベーシスト)などで乗り越えたことも何度かあったし。
ところがジョニーは「曲を忘れるくらいのことが何だ。演奏が思うに任せないくらいのことが何だ。俺たちでフォローすればいいことだろう。」に続いて冒頭の名言「バンドなんだから、何があっても一緒だろ?」と締めくくった。
我が身が恥ずかしくなったと同時に涙が出た。ロックミュージシャンがバンドを組むというのはこんなに凄まじいまでのことか。そして愛というのはこういうことを言うのかと思った。
意に染まない晩年だったとは思うが、世の中にも、ミュージックシーンにも、そして僕としては何よりも僕自身にいっぱいの贈り物をしてくれつつ世を去ったジョニーに改めて感謝の念を送りたい。
ジョニーが最後に身を寄せていた桑名正博にジョニーの最後の様子を聞いて、一緒に追悼していたら半年経って桑名が倒れてしまった。無情を感じていたら翌年自分が倒れてしまった。
そして僕の入院中に井上淑彦(Ts)藤井裕(B)伊藤八十八(伝説的プロデューサー)が世を去り、退院直後には石田長生(Gi、Vo)が逝った。
なんだか悲壮になったり怖くなったりしないものですね。友人達のことと自分のことを身内のような他人事のような、曰く言いがたい距離感で眺めている。

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