佐山雅弘の音楽旅日記
「開演の時間ですが‥‥‥」 と、おずおずスタッフが催促するが、ここまで来て切り上げる訳にいかないのは、時折やってるカードゲームのことではなく、シンフォニーの四楽章中盤に差し掛かっているからである。それもベートーベンの「英雄交響楽」の、変奏がいくつか続いてもうすぐ短調に転調してフルートのかけあがる、あのぞくぞくする所が目前なのだ。
勝山市にある代々の造り酒屋の、いくつかの蔵の一つを楽屋に提供してくれているのだが‥‥広い。
「悪さすると閉じこめられましてねェ」とご当主は笑うが、ベースの小井などは、
「ほな何か。うちの家族五人は閉じ込められて暮らしとるようなもんやなァ」と嘆息。
手回しの蓄音機で膨大な量のSP盤から「チゴイネルワイゼン」「星は光りぬ」等を聴く。バイオリンの音色、テノールの艶やかさは今時のCDよりずっと深く感動的であると共に、昔の人は本当にうまかったんだなァ。だってマイク一本の一発録りで、今時の「キズのない演奏が目標」みたいなチンケさの微塵もない豊かな音楽表現さ、それこそキズのない演奏技術で残しているのだから。
部屋、つまり蔵の中の反対側の壁面には、うって変わって近代的なオーディオが並び、特にスピーカーがタンノイのバスレフ式大型器で、並んでるCDコレクションがベートーベンとシェーンベルク、そしてアリアもの多数、ときたら、こちらの音も勉強させてもらわないと悔いを残すってもんだ。で、お向かいに出したレストランでのライブ開始が20分程遅れてしまい、お客様方には申し訳なかったが、オレ自身は申し訳なかったのだった。
水戸からお嫁に入った「トモコ」奥様。お茶の水で学生時代を過ごしたという彼女は風貌もチャーミングながら、さりげなく深味のある教養人で、先述の、交響曲の中盤あたりで、「いよいよね」などと囁かれると、好きになっちゃいそう。ただ教養深い人の欠点は、相手もその位の事知ってるだろうと思っちゃうらしい事で、
「佐山さんの“アロマ・アロマ・アロマ”っていうのは坂口安吾の“音楽は芸術以上の、むしろ香りのようなものである”というあの文章から来ているのでしょう?Aromaって語感も私、英語の中でとてもきれいな部類に入ると思うの」
なんて事をさらりとおっしゃる。
どうせ空いてる部屋なら当夜はその蔵に泊まりたいとゴネたのだが、いやにリアルな古い日本人形のあるのが怖いのもあって、予約してあった近くのビジネスホテルで寝たのだが、泊まらなくてよかったのである。なぜなら‥‥
このツアー用の買い物中に衝動買いした「携帯用青汁粉末、シェイカー付き」というのを翌朝作る時、「寒いからお湯にしよっ」と、容器にお湯、パックの粉末を注いで、フタをし‥‥たと思った途端、「ポーン!!」と音がして‥‥たった200ccの容器なのにすごいですね。壁、ベッド、オレの頭、顔、Tシャツ(勿論白無地)、見事に緑色のだんだらに染まったのだった。
ホテルに謝り、クリーニング代を余分に置く位で済んだが、オーディオのみならず、伝来の日本刀、国宝級の掛け軸、疎開にでも来たのだろうか、在りし日の谷崎潤一郎の写真を入れた高そーーな額を飾った趣味のよいこれも骨董的な小机等々の並ぶあの蔵の中であったらと考えただけで青くなる。いや青汁まみれにはなったんですがね、あれは緑色。
エピソードVIII
汚してしまった話をひとつ。
近藤房之助は一時逗子に住んでいたが、経営する下北沢のストンプでいつものように朝まで飲んで、(朝まで営業だからと本人は言うがどちらが主かは日によるだろう)帰ろうとしたら、普段より遅くなったらしくラッシュアワーにつかまってしまった。勿論坐るもならず、ギュウギュウ押されてるうちに気持ち悪くなってきたが急行電車でなかなか次の駅に着かない。ついに耐え切れず、幸い(?)買い持っていたギターの弦セットの袋に吐いた。当然臭うので、周りの客は白い目で見るし、満員の筈の車両が房之助の周りは少し空いたそうな。しかし電車はまだまだ走る。紙製のその袋の尻からポタリポタリと雫が垂れ、悪い予感そのままに、ある瞬間に「バッ」と割れて中味が全部床に‥‥‥なんと、ギュウ詰めだった筈が半径一メートルの空間がポッカリあいたそうである。次の駅までその中心で房之助はうつむいているしかなかったという。当り前である。