佐山雅弘の音楽旅日記

緑深き合間に覗く狭き空は輝き、移動日と言う名の休日は旅先の心軽さもひとしおである。が、なんと道のくねくねしていることか。聞けば戦国の世もようやく治まったかにみえた頃に肥後熊本に移封なった加藤清正が、日本一の名城の誉れ高い熊本城の縄張り(設計、施工)とともに、凹路にした上に曲がりくねらせて、北方の要害としたという。その三百年の後に、西郷隆盛を総大将とする薩摩軍が、熊本城を攻め倦ね、15km北方に退いて、この田原坂で決定的な敗北を蒙ることになる。敗北とは言っても、17日間にわたる一進一退の攻防の末、後方の砦を官軍の別働隊に陥されたゆえの退却であって、官軍側にしてみれば、遂に田原坂は抜けぬままだったことにはなる。戦中一日程度の晴れ間があったのみで、みぞれまじりの雨と乳のような霧の中、双方合わせて三千人強が戦死、この一里見当の坂道で使われた弾薬が、後の日露戦争における旅順攻略の際と同じ、一日当たり三万数千発だったというから驚くが、今自分の立ってるこの土の上で、、、と思えば悲しみとも、祈りともいえる感慨がある。想念、感動というものは、名前や形容詞を胸の中だけででも冠した途端に細やかな襞が失われるので、触らずにおいて、後日のフラッシュバックを待つのが上策であるが、植木町という西瓜の名産地にして、人口の割に広大なこの土地で日本最後の内乱があり、その攻防に遠い戦国の名将が深くかかわったことは、日本に生まれたものとして突き動かされるような情動が腹の底に湧く。そして沈澱する。

駒ヶ根のジャズフェスのあと、台風と待ち合わせをするように高知に入り、月猫絵本音楽会。朗読、パントマイム、芝居、それぞれ絡み合うのにアドリブで音楽(ピアノソロ)をつけていくという、親子連れ対象ながら、ある意味最もインプロ能力+集中力を必要とする出し物であると共に、とても楽しいツアーでもある。キャスト四人に舞監、アカリ、音響、メイク(オイラも化粧!)までついた一行十四人で旅回り。これに現地スタッフ、バイト勢が力を合わせて舞台をつくる。音楽とはまた趣きを異にしたあじわい。旅一座の気分がまたこたえられない。その流れで大牟田に前日入りして、の散策である。

歴史的感慨に耽った割には、帰りに見つけた剣道具店で三尺八寸(竹刀)を買うところがなんとも軽いが、店主に素振りの教えを乞うとピシリとキマっていて、この辺りの子供は学校で竹刀の素振り位は習うという。九州男児おそるべし。  柳川の川下り後うなぎせいろ、という極めて一般的な観光は、船頭の解説攻めで却って楽しめなかった。北原白秋の歌碑がやたらあるのはまあしかたないが、白秋と壇一雄を同列に語るのもどうかと思われるのはまだいいほうで、その話の次に、阪神の真弓や、オノヨ-コの伯父の家から古賀政男記念館と続く。名の知れた人を輩出すれば自慢になるのだろうか。観光というものの皮相性を実感したことではあったが、通り道の提灯屋を覗くと、胡座姿も堂に入った翁が黙々と中振り(1m程)の提灯を作っている。タコ糸と和紙、和糊と刷毛の作業は心休まるとともに、職人の手作業に対する素直な感動も伴って、十分も眺めていると、入ってこいと手招きされ、お茶までご馳走になった。息子さんに商売まわりのこと、お嫁さんには町の今昔、おとうさん(おじいさん)には太平洋戦争の話を聞いてなごむという、テレビのなかった時代のような寛ぎ方は、ある意味とても贅沢な時間。さあ、熊本で最終日を成功させてそのまま博多へ駆け付けてODUに合流だ。長い一日ではある。

「いいね!」して最新情報を受け取ろう!

前の記事

佐山雅弘の音楽旅日記

次の記事

佐山雅弘の音楽旅日記