古澤良次朗の悟り
2015年6月5日
古澤良次朗の悟り
古澤良次朗の悟り
教え:間違ったんじゃない。そのときに君の中の君はそのように弾きたかったのだ。
“あのころ”というアルバムを制作していた時のこと。今はなき赤坂のコロンビア第一スタジオ。
大出元信は僕と同年でネイティブ・サンにも抜擢され、リズムギターを突き詰めるべく精進していた。奇才・広木光一は幾つか年少ながらも佐山・大出とは同期生的付き合いで忌憚のない意見交換(つまり喧嘩も辞さぬということ)や馬鹿話に興じた仲間だが、大出のことはとても買っていて、というか認めていた。器用な僕は大出の不器用さとそこから出てくる、あるいはそこからしか出てこない凄みに気づかないまま、単に仲のよい友達付き合いをしていた。
ロミー木下によって不器用な人が“何故、どのように有意義に不器用なのか“を気づかされることになるのはもう少し後のこと。”サキコさん(佐木古山=佐山・木下・古澤・山岸)“というバンドを始めてしばらく経った時のことだった。機会があればまた語ろう。
そして大出の気にしていた“八分音符を16分で切るか、32分音符まで詰めるべきか”なんていう悩み(川端さんによく相談していた)なんてチンプンカンプンであるとともに“どうでもいいじゃねぇか”なんて腹の中で思っていたもんである。無知アンド傲慢この上ないですね。
その川端民夫によって一旦奈落に落とされ、ある種の目覚め・覚醒が起こる。そして28才にして“一生音楽をしよう。プロになろう”と決意するに至るのだった。
世間話
古澤バンドへの加入とツアー。とりわけリー・オスカーを迎えてのツアーは僕の進路に決定的な転機を与えた、と言って良いだろう。
日本3周くらいはしたかなぁ。宮崎のライフタイムで古澤さんがタバコを所望して店の人に払おうとしたら、マスターの草野さんが若い店員に「その人からお金をもらうんじゃない!」としかっていたのが妙に印象深い。古いタイプの人々はそういう細部でもリスペクトの形を表すのだな、と。
それにしてもキツくて楽しいツアーの原体験だった。電車にドラムセットからベース・ギター、アンプ類、僕の使うシンセサイザーキット一式まで乗せる。乗り換えの時はメンバー全員でバケツリレーよろしくホームの階段を上がり下りして5分10分の乗り換えに間に合わせるのだ。夜は当然全員での飲み会が毎日続く。ほぼ馬鹿話だがそのうちに語り出す古澤さんの音楽談義、その音楽観、音楽にかける夢、僕たち若手に託す希望、などなど際限なく続くあの独特の仙台弁を思い出す。