小島良喜(ヨシノブ)の天才

2015年9月4日
小島良喜(ヨシノブ)の天才

 教え:特になし⇒プレイの全て、アティテュード(態度・姿勢?)、言動、全てが教えであり、オリジナルであり、芸術家として正しいんである。
あの時のこの言葉、というのではなくて。ピアノは勿論、居ずまい、ジョーク、良いことも、(どうかと思うようなことも含めた)行いとその決着(オトシマエ)の付け方。などなど、全てが真っ正直な音楽家とはこうだろうな、という “教え・・・ノヨウナモノ” になっているのである。

プレイ面。
リズム:イントロを弾き出した途端、強力なグルーブが生まれている。あたかも10分15分も前からそのリズムでグルーブし続けているかの様相。
ハーモニー:ブルーノートは不協和音のぶつかりが面白い。西洋和声は不協和音に見えても、たどれば必ず物理的な整合性が通っている。小島の付けるハーモニーは西洋和声をいじる時にブルーノート(主に3度7度)の位置ではない音を変化させて不協和音を作る。その響きがブルーノート的なのだ。逆に・・・
メロディ:ブルースっぽい曲のセブンスのコードでメジャーセブンスの音を含むフレージングをする。これはジャズには珍しく“やっちゃいけない”事柄なのだが、小島が弾くと新鮮で斬新で美しいメロディラインになる。
音色:もはやピアノの音ではない。よく通り、澄み切って、力強く、それでいて癒される。どんな和音もメロディもはっきりと意思の通った立ち上がりをするので、ワンプレイから喜怒哀楽どれでも聞き手の自由に感じることが出来る。
同じ場面で人によって真逆でも良い解釈が成り立つところがインストルメンタルの最大の魅力。究極の文学性と言っても良いのではないか。
小島と出会った時、ピアノをやめてこの人のマネージャーになろう、と思った。
神様がある程度まで僕に音楽の上達をさせてくれたのは、この人の凄みが、微に入り細に入り理解出来て、ある種の奇行も納得できる。この才能を広く世に知らしめる役に最適なのは僕であり、今、天職に巡り会えたのではないか。

発言面。
彼と二人のユニット“フォーハンズグルーブ”(名付け親は永井ホトケ)が始まってしばらくしてホール仕事があった。調律も音響(生音)も申し分なく、このユニットはこのぐらいの贅沢をして然るべきだと考えて、僕としてはオファーを受けるのをセーブしてた。ちょうどミューザなど大きいホール、オケとの共演など仕事が大振りになっていく時期と重なっていたこともある。そんなことを言えば小島の方は浜田省吾だのチャーだの、2000クラスどころか1万2万クラスのコンサートもさんざん行っているのだが、「ジロキチたのしいやん」と営業面(?)のことなどまるで無関心なのだった。あまり集えなくなった今にして思うと、場所はともかく、やれるだけはやっておくと良かった。
面白い質問ゲーム。
「バンドがあります。とても良いバンド。何故か売れないでいる。何が足りないでしょう?」という質問にどう答えるか。正解と言うのは無いのだが、オチがある。答えた項目そのものが、その答えた人に今最も欠けている、というのだ。とても興味深くなってくるでしょう。曰く「顔」「アンサンブル」「ヒット曲」などなど。答える各人の考えや悩みが出て、面白いのだ。
小島の答え。「バンドがええんやろ?ほな、それでええやないか。」
あぁ、なんという満点な答えだろうか!彼がいかに正しい人物、正しいバンドマンであるか、がよくわかるエピソードでしょう?そして、聞いてみれば分かるが自分からは思いつかないことを、スラリと言ってのける、やってみせる。天然?いや!天然なだけではああはなるまい。やはり天才なのだ。
ちょっと微妙なエピソード「言うてもわからんやろ」
この言葉自体は“教え”というほどのことではないのだが、小島の場合、
物事をストレートに捉えるとそうなるだろう。音楽を良くしようとすれば当然こうなるだろう、ということを、スイスイとやってのける。と、周囲との摩擦が生まれるのだな、これが。社会というものの不思議さ。
冒頭の言葉に至る道筋。
ある時の会話で、「この間、さるミュージシャンを可愛がってしまった」と言うので理由を聞くと、件のプレイヤーが「君は何故同じ曲のソロを毎回違って弾くの?」これは「アドリブでも毎回レコーディング通りに演奏するべきである」という意味。そこで振り向きざまにアタマを撫で上げた(グーで)という。
「決まったフレーズをなぞるより、その時に即した音を出す方が良い場合も多い」位の説明は出来ないのかい?と問い返すと「言うても分からんやろ」と一言。実は僕もそう思う。ああいう発言・発想をして、なおかつ他人にそれを求める行為に及ぶ、という時点で「言うてもわからん」人なのだ。
社会では価値観の違う同士もすり合わせて暮らさなくてはいけないために様々の習慣や約束がある。バンドと言う、とても特殊で密接な、そして各々の理想がぶつかり合う現場では、“その場の空気を無事にやり過ごす”ことで済まされないことが多く発生するのもやむを得ない。のだろう。
僕は、というと、音楽よりその場をスルーすることを選ぶことが多い。それってどうなのか微妙だが、幼いときから“喧嘩を通じて仲良くなる”という習慣がなかった。

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