読書(途中)感想文
2017年1月12日
読書(途中)感想文
「点」とは「位置があって大きさのないものである」という定義を高校だか中学の数学の授業で聞いた時に随分感激したものだ。それが(比喩として大袈裟になるが)真理の探究に対する感動か、言葉による表現方法の巧みさ、つまりある種文学的な感動なのかは未だにわからないけれど。
線・長さがあって面積のないもの。面・広さがあって体積のないもの・・・と続くと立体は?大きさがあって何がないかな?次元の順序でいけば次は時間軸なんだが、そこはどう表現されるのだろう?
と考えているうちに「存在があって質量のないもの・魂」なんて出てきた。
人間は分子の集合体だから焼くにせよ埋めるにせよ分子原子レベルに分解・再結合で別の色んなもの(の一部)になってゆく。花に、土に。ミミズやヒトに。質量保存の法則からしてすべてが過不足なく使われる。“千の風”にはならんだろうな。風は現象であって分子じゃないから。 “現象であって物質でないもの”に「感動」や「魂」や「心」があるから“ヒトが死んで千の風になる”ことも、まぁあるかも知れない。「“風”の不思議に触れるとき人間は神の存在を感じている」とチック・コリアが”Now He Sings Now He Sobs”のライナーノートに書いていた。
人間の一部である心や魂は体内のどの部分に存在するのかはわからないが、質量がないならば体が滅んでも存在は残るのか?などと普段とは真逆のことを考えてしまったのは、今読んでいる本の影響だと思い当たった。
ハン・ガン「少年が来る」
肉体を失った魂が語る小説。
“悲惨で読むのはつらいけど向き合わなければいけない物事、読んでおくべき物語”だと思って読み始めたのだが案に相違して、“じっくりゆっくりすらすら”読める。文学として上質に成立しているからだろう。なにがどうなれば文学になるのかは相変わらずわからないけど。
「良い文章は書けないが悪い文章はわかる」ように「どうすればそうなるかはわからないけれど良い演奏状態にある時はそのことがわかりながら演奏している」から「なにが文学かはわからないが今触れているものが確実に文学であることはわかる」ということも方程式として成立するだろう。
“じっくりゆっくりすらすら”という現象は不思議なことに矛盾しない。“極度の緊張を伴ったリラックス”という不思議に矛盾しない状態があるように。“極度の緊張を伴ったリラックス”というのは山下洋輔の小説に出てくる演奏場面の描写。